top of page

自分の中の音楽

  • dangomuuuu
  • 2021年8月22日
  • 読了時間: 6分

2021.08.22


楽曲のイラストをひたすらに描き続けるという、至極輪廻的な日々を送っています。目と手の疲労が困憊し始めているので、久しぶりにブログを書こうかなあと思い立った次第でございます。

最近は自分の音楽が、果たしてどういう位置に置いて聴いてくれた人の中にいるのだろう、ということを考えることが多いですね。実際のところ自己満足というか、ある種のエゴイズムの塊であって、自発的に制作しその延長線上にて、不特定多数の人間の耳に届く場所に載せる、というルーティンを繰り返しています。少し生々しい話にはなってしまうけれど、自分の作った音楽で生活を賄えた瞬間はまだ訪れたことはなく、直接的なものではないが生活の根本の様な、音楽を作るために生活で音楽を賄っていかなければならない、音楽を続けるためにその他を犠牲にでもしていかなければ他にない。この考えの終着点を先に上げてしまえば、ままならない生活を避ける為に音楽を作るなんて真似はしたくないし、お金のためか生きていくためか、そんなビジネスめいた音楽はクリエイティブなロジックが全て崩れてしまっている。それもそれでユーモアだったり、アイロニー的な音楽の面白さは共存していくのかもしれないが、如何せん自分の内に沸々と浮かぶ情操に蓋をしてしまいたくない。そう思っています。

自分の中で、生と死や人生観みたいなものが良く分からなくなってしまうことも多々あって、何をするために生きているんだっけ?と疑問を持つことも少なくなく、反対にどうしていずれ死ぬ定にあるのだろう?という哲学的な思想に陥ることも多い。少なからずやりたいことは自分の中に頑として存在していて、それのために生きていたい。音楽を作って、自分の音楽から少しでも豊かなものを持ち帰ることが出来るのであれば、その人たちの為に、自分にしか作れない音楽をひたすら作りたいと思う。私には音楽しかない、みたいな素敵な状況に置かれているわけでもなく、そんな綺麗事染みた言葉は下品なほどに恥ずかしみを覚えてしまうのだけれど、先述した生と死すらもわからなくなってしまう心内を消化する術の選択肢に、音楽しかないのだなあとこの頃ひしひしと感じる。簡単に「自分にしか作れない音楽」という言葉を使ったのだが、そんな単純なものでもないことは痛い程に実感しています。私もそうですが、誰かに憧れて、こんな人になりたいと強く思って何か新しいことを始めてみて、その結果始めたものが、その誰かと瓜二つな同じ様なことであったり、世間から言わせてみればパクリだと言われてしまうものであれば、憧れた人間の単純な下位互換であると思っています。気に入ったJPEGデータを保存して、あたかもオリジナリティ全開に貼って、保存して貼ってと繰り返して、画質がガサガサになってしまう様な感覚で、音楽も同じだと。誰か1人が憧れの対象においた人間には少なくとももう1人、その人を崇拝する人間が存在していて、その人から見ればパクリを作っていると言われてしまう。それは決して間違ってなどいないけれど、そうなってしまった以上影響を受けすぎた作品というものには、存在価値なんてありやしない。この人みたいな音楽を作りたいなあ、となあなあなテンション感で楽曲を作ってしまうと、コンセプトだったり曲調だったり色々な箇所で似ついてしまう。誰かの心を動かすことの出来る楽曲には、一回聞いただけでは理解知り得ないほどの葛藤や、叫びが詰まっていて、それらの気持ちの込めかたみたいなものを真似ていかなければ、折角ひとりの人間として生きてこれた意味というか、その上で音楽をやる価値が錆び付いてしまうんだなと思います。

今出来る自分の全てを込めたな、と思った作品よりも心の中をさらけ出した作品の方が反応が良かったりすることもあって、そういった音楽的価値というものは意図しない部分にも顕著に現れてきてしまうんだと。誰か曲を聞いてくれる人がいるのであれば、その人はきっと〇〇さんみたいな音楽を望んでいるわけではなく、あなたの中身、あなたの中に濃縮されている音楽を聴きたいとおもうんです。あなたと表現していますが、これは全て自分に対しての言葉ですね。どうせ音楽をやるなら自分にしか作れないものを、それすらもどうも出来ない程に落ちてしまったら死んでしまおう、みたいなね。大袈裟に言ってるんだけども、もう一度いうと音楽しかないわけではないけれど、常日頃言いたいことというか、訴えかけたいことを消化する術として、音楽しか知らないんです。人間という生き物は皆、「私はこう思っています。あなたはそうかもしれないけれどきっとそうじゃない方がいい。」みたいな些細なことを世の中に対して常々思いながら生きているわけであって、それを流暢に話して表現したり、文字列に並べて表現したり、そう言ったことが非常に苦手で。歌にその心情を注ぐのであれば、普段だったらできない様な「自分」ってものをめちゃくちゃに格好付けて、恥ずかしい程に心を叫ぶことが出来る。表現のツールとして音楽をするというと無論聞こえが悪いけれども、わかりやすくいうとそういうことなんです。そういう側面も込みで私は音楽が好きなんだなと思いますね。

そういう自分の中の有象無象たちを消化して作った私の音楽ってものは、一体聞いてくれた人の何になっているんだろうなあと改めて思いますね。かっこいい、素敵、好き、みたいな言葉をくださることも多くなっていて、非常に嬉しい限りではあるのだけれども、かっこいいなー。で終わってしまう音楽に何の意味があるのだろうかと。自分でも極論であることはわかっていて、私が今まで作ってきた楽曲やこれから出す予定の曲たちを否定しているわけではない。ただ右から左に流されていってしまう音楽の中にも、幾万の想いや意識が詰まっていて、ふとした瞬間にそれらが憑依するというか、音楽を作った人間と、それを聞いた人間のパーソナルな部分がマッチして、頭を掴まれてぐわんぐわんに揺さぶられる様な感覚に陥ることがたまにある。その瞬間のために音楽を作っていると言っても過言ではないのかもしれないと感じています。単純な自論でしかなく、根拠だとかルーツみたいなものは私の曲を聴いてくれとしか言えないくらい、風に靡いていくような下らない話ではありました。

綺麗な理由で音楽をやれているわけではないのかもしれない、ただその中でどれだけ美しいものを作ることが出来るのか、いずれ自己満足にはならない音楽であると信じて、今更恥ずかしみを覚えるのかわからないけれど、私というものを音楽に陥れてしまいたいと強く思います。きっとそれが音楽において大切な要素であると思うんです。アイロニーとかユーモアとか、それらの根底に位置してしまうくらいに。

何を書き綴ろうと決めずにだらだらと書き殴ってしまった。見返してないんで読み辛いことこの上ないと思うけれど、ここまで読んでくださった人がもしいるのであれば、ありがたいです本当に。そしておつかれさまでした。ありがとね。

ということでイラストを描いてきます。ぱっぱらー

© copyright Kei Koyama OKAMEYA inc. All Right Reserved.

  • ホワイトYouTubeのアイコン
  • 202302_niconicosymbol_wh
  • ホワイトTwitterのアイコン
  • ホワイトInstagramのアイコン
  • チクタク
bottom of page