2025.03.17
こないだ君と僕と猫というシングルのMVとデジタルリリースが配信された。これでこの楽曲たちに手をつけることはないのかと思うと寂寞すらも感じるけれど、そう思えるほどに色んな思いが詰まった音楽になった。つらつらと適当に書いていくので、もし時間があればこれを読んでくれた後、わたしの楽曲たちにもどうか耳を貸してあげて欲しい。
ここ最近はしばらく深刻な曲ばかりになっていた心地がある。2023年に出したメーデーの楽曲たちはわたしにとっての大切な人間の死から生まれたもので、制作してからも暫くは自分自身と向き合ってひたすらに生きることを途切れさせないよう必死だった。上手く言葉になおらない涙ばかりが部屋の空気に溶け出していって、いつだって部屋のドアを開けるとペトリコールが鼻を刺した。気がつけばメーデーのリリースからは一年半くらい経ったらしく、大きな死の出来事からは2年半くらい経ったらしい。あれからこんなにもの時間を生きていたとは思ってはみなかった。生きることに対して悲観的になっていたかというとそれすらも曖昧でよくわからないが、ああまだ自分は息をしているんだなとふと感じる瞬間が多くなったことを覚えている。もともとポジティブで明るいだけの世界を映すような音楽はなかなか作れない人間だと自覚があるのだけれど、それでもメーデーでかいた曲たちには呪いにもよく似た深刻な表情が籠ってしまった。大切に言葉をかいて、大切にギターを弾いて、大切に歌った。あの歌たちのなかで半分くらいはレコーディング中に声が震えてしまって、だいぶ時間がかかってしまうくらいには、大切に大切に歌った。リリースした後にすぐには何も手につかず1ヶ月くらいの空白を経てから、ようやっと君と僕と猫という音楽が生まれた。2023年の年の瀬あたりだった。
その頃は今よりも散歩をするのが好きで、よく一握りの小銭とイヤホンを刺したスマートフォンだけを持って眠る街を歩くことがある。捨てられたペットボトルやら空き缶やら、どっかから飛んできたであろう靴下の落とし物やら、誰かの生活に不要だと唾をかけられて除け者にされた、かつての誰か生活の欠片がわたしたちの歩く道にはいくつも落ちている。小さなワイヤレスイヤホンが落ちていることもあったし、どうして落とすのかわからないようなスマートフォンの画面保護ガラスみたいなものもあった。落としたんじゃあなくって意図的に捨てたのだろうか。スマートフォンの代わりに傷を負ってまで守り続けた挙げ句の果てがこれか、と寂しさを覚えてしまった。せめてゴミ箱という彼らが行き着く居場所に収めるべきだろう、と。そんなことをぼんやり思いつつも空っぽに近い頭で通りを闊歩していくと、ごくたまにばったりと猫に出会う。こちらには興味のなさそうな素振りで前足を舐めている光景が思い出せる。灰色の虎のような風格で、夜がよく似合う猫だ。彼とはよく出会った。基本的に動物がかなり好きなので猫なんかを見かけた時には、彼が自分の意思でその場を去るまでしばらく居座ってしまう。ある程度の物理的な距離を保ちながら腰を落として彼と近い目線になって見つめていると、どこかのタイミングでこちらに気がついて、逃げ出したり、じっと見つめ返してくれたり、こちらに近づいてきてくれたりするので、その時が来るまでわたしは猫を見る。時によって整った毛並みの猫もいれば、飯を食えているのか心配になる痩せ方の猫もいる。変に餌を与えてしまうことはかえって彼らの生活を壊すことを知っているので、助けたいという偽善染みた優しさをぐっと殺してただ見つめる。いろんな落とし物がある道だ。その隅でこちらに見向きもせずにひたすら手を舐めて自分を磨く猫がいる。これは別に物珍しい光景ではない。だからこそ質素で生命的で神秘的で、今わたしの中にこの光景を残しておきたいと思った。大切なことなんだと猫に耳打ちされた気がした。
人間ははじめから何にも持っていないとわたしは思う。だから誰かから全部もらって、いつか全部なくして、またもらって、そうやって生きていく。落としものだって思い出せない記憶だって忘れてしまった傷跡だって、どうせ誰かがくれたものだ。わたしが拾いたくって拾ったはずだ。そんなわたしたちの中にはなくしてしまったことに気がつくものと、気が付かないものがある。それは、端的に大切なものかどうか、という線引きで分けられていると言える。生活に必要な物、生きるために必要な物、過去を忘れないため未来を見据えるために必要な物……それらはなくしてしまったらすぐに気がつくだろうし、すぐに思いつく限りの場所を探すだろう。そいつらを探している間に、必要ではない物がいくつなくなってしまったのだろうとふと考えた。なくした「物」としてではなく、「なくした」物として脳の中を散歩してみると、小さな頃大事にしていたキーホルダーとか数年前に何度も読み込んだ本だとか、いつかの大切だったはずのものが、今はもう手元に残っていないことに気がつく。いつ無くなってしまったのか、捨ててしまったのかも見当もつかない。寂しさと同時に、そういうものなんだろうかと不思議な納得感があった。今の今まで気がつかなかったなくしもの、それは今は大切ではなくなってしまったものであって、思い出せない中にもそういった類のものはいくらでもあるんだと思う。大切ではなくなってしまったとも言えるし、大切にしなくても大丈夫になったとも言える。そんなことを考えている間にも何かしらなくしてしまっているのかもしれない、と延々と思考がやまなくなる。ぐるぐる。ぐるぐる。
過去になくしたものを思い出したり、探したりすることは尊いことで、未来のなくしものを減らそうとすることも生産的で、それでもそうしている間に今の大切がなくなってしまうことも現実だ。どれをとるべきかは人によって違うし、正解はない。これまでのわたしは過去のなくしものばかりに目を向けて、今ある大切をひたすら失って、それをまた探している間にその時の大切すらもとうとうわからなくなった。だから、今をとにかく見つめて今を掴んで生きていたい、と強く願いながら息をしている。こんなことを君からもらったんだよ、というと猫は怒るだろうか。深夜に急にやってきて呆然と自分を見つめてくる人間からそんな言葉はなるべくもらいたくないだろうが、間違いなく猫と出会ったことでもらったものだ。彼はおそらく今の大切をちゃんとわかっている。後悔することがあるのかもしれない。寂しくなることだってあるのかもしれない。それでも、夜明けにも程遠い闇の中で自分を綺麗に舐め続ける彼は、あの瞬間何よりもずっと美しかった。
ふと思うとわたしは一度のその猫を写真に収めなかった。時間が経ってからあの瞬間を見つめ直したところで、ぜんぶ写真には映らないと確信があったのだ。もしインスタントカメラなんかのシャッターを切っていたらどんな写真が撮れていただろうか。妄想の中の写真には、フラッシュの光を恨めしそうに見る灰色の猫が映っている。背景は黒一色になるくらいぼやけていて、ある程度近い距離から写真を撮ってしまったから猫の全体図すら映っていない。そんな写真がきっと残るだろうな。その写真をどうにか一度見てみたいと、今はもうすべてのページが埋まってしまったメモ帳の隙間に、鉛筆を滑らせて絵を描いた。申し訳ないくらいにあんまりに可愛く描けなくって、少し落胆してすべて消しカスに変えた。それからまたギターを担いで、その光景も感情も全部音楽にした。
それからいつの間にか月日が経って、よく出会う灰色の猫とは出会うことが少なくなった。彼は痩せていて薄い肉の向こう側に骨の輪郭が浮き出ているような姿をしていた。ううん、いつになったら会えるんだろうなと時々あの時であった場所に足を運んでみても、誰もいない。猫がいなくなってしまったその場所は、夜に溶けそうなほど暗い路地裏で、電柱の影に何重もの雑草が生い茂っているような田舎道だったが、この間なんの気無しに路地裏を歩くと雑草が綺麗さっぱり刈られていた。かつて猫がいた電柱の下には道路工事用の印みたいな物が黄色いペンキで描かれていて、それを目にした時ああもう彼はここにはいないんだなとどこかで思ってしまった。名前も知らない。どれだけの年月を生きてきたのかも教えてもらっていない。毎回出会う彼が毎回同じ猫だという確信もない。それでもきっと今はたらふく美味しい飯を食べてぐっすり眠れていたらいいと願った。これは、星がやけに綺麗な夜のこと。
あなたに残ってしまった過去も、息をするのも難しいかもしれない今も、全部あなたのものだよという言葉は、時に恐ろしく誰かの首を絞める。こんな過去も今もいらないと思う誰かがどこかにいる。あなたが思いたいことはなんだろうか。今のあなたが大切にしたいことはなんだろうか。せめて今あなただけに見える景色だけは疑わないでほしい。信じなくたっていい。誰かを傷つけたいわけじゃないんだけれど、そんな感じ。
そうして君と僕と猫という音楽をつくった。CDと画集の絵を書くときも頭の片隅には彼がいた。みゃーと鳴いてどっかへ走り去る彼みたいに、なぜか軽快にすっきりとした心境で絵をかけたことを思い出した。あの瞬間にはきっと今の大切を見つめられていた。
カップリングの死ねない幽霊と、まちあわせという楽曲も全部、言葉にすべて出来ないくらいにとにかくいろんなことを込めた音楽になった。わたしがあなたに今伝えたいことを全部音楽にした。あとは今のあなたが思ったようにわたしの音楽を聴いてくれたら、それがいい。ありがとう。