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夜にわたしが考えること

  • dangomuuuu
  • 8月3日
  • 読了時間: 7分

2025.08.03


わたしにとって、夜とはなんだろうとふと考えることがある。最近は深夜3時とか4時とかでさえ驚くほど暑くって、散歩に出たや否や1時間もしないうちに気がつくと涼しいアトリエデスクに突っ伏していることが多くなった。そんなときに考えたことをブログに残してみようと思う。多分よくわからないことを話すので、読んでくれるのであれば話半分で構わない。


太陽が沈んでもう一度顔を出すまでの時間、というのが夜らしい。昼間は太陽に遮られて光ることを許されなかった星たちが、暗い夜空では輝けるらしいので、時々彼らを見たくなってベランダに出る。煌々と光る街灯がやけに邪魔に見えてしまって、結局近くの高台みたいなところまで歩いて、自分にとっての一番星を探したり、頭の中で乱雑に星たちを繋いで思い思いの正座を作ったりもする。街という事象そのものが寝静まって、遠くの太い道路からトラックやらサイレンやらの音が聞こえてきて、その隙間で僅かに虫達の歌が鳴る。夜に生活を営んでいると、至極くだんないことにまで目が向いてしまう。夜というたったひとつから、いくらでも言葉が生まれてきてしまう。そのどれもは意義も何もない言葉だけれども、そういう言葉たちを集めたくなるのが、わたしにとっての夜だと思った。

夜はどうやら暗いらしい。そうすると、昼間にはわたしの足元に絶えず着いてくる影がどこかへいなくなる。明確にはうっすらと存在しているんだろうが、それを認識するだけの明るさに満たないから夜の自分自身そのものが影なんだろうなという心地になって、わたしを疑ってしまうことがある。本当に今という刹那を生きられているのかとか、目の前の事物をしかと見つめられているのかとか、あげていけばキリがなくて誰にも答えを教えてもらえないばかりに宛もなく黙々と思考をしてみると、あまつさえ何を考えていたのかさえ不明瞭になって振り出しに戻る。そうやっていつもわたしは夜を始める。


話を戻してみると、わたしにとっての夜というのは、結局のところそういう果てしない自己との対話という現象の集まりであって、その対話をするに最も適した時間帯、もしくはとことんまで孤独になれる時間であるといえる。孤独でなければ自己との対話は叶わない。だからといって孤独だけを望むわけでもない。わたしというのはどこまでも面倒な生き物。

ひとりぼっちとか孤独とか、わたしはそういう言葉を楽曲の中でよく口にすると思う。それは自己否定とか嫌悪とかの側面もあるとは思うんだけれど、わたしにとってはそれらはどうしても自分自身と切っても切り離せないというのが大きなところ。ただしずっと孤独かといえばそうではないのだけれども、これは物理的なお話ではなくってあくまで自己と他者という決してひとつになりえない境界がある上で、わたしはよく孤独、ひとりぼっちという言葉を扱う。ひとりぼっちの時には、独り言が生まれる。逆に言えばひとりぼっちじゃなければ、独り言は生まれない。そこに生まれた言葉はどうしても独り言になりえない。独り言になった言葉は、自分自身の内省だとか思考のロジックだとかを洗いざらいわたしに教えてあげる日記みたいなもので、日記を記すという行動は自身の思考や感情、ストレス、それらをあらためて認知して整理をしていく工程であると誰かが言う。それはまさしくその通りで、ただそれは日記である必要があるのかと言えば、そこにはあまりにもプライベートで誰にも明かされないという日記の性質が大きく関わっていると考える。だからひとりごとも似たような性質を持つといえる。誰にも見られない、聞かれない場所で文字に起こしたり、声にしたりする言葉には、誰かへの謙遜もお世辞も遠慮もなくなる、ことが多い。そうして1日を振り返っていくその文学的な空間に孤独でいられることは、短い1日という時間そのものを文字にしていくにあたって、自分と自分がただひたすらに向き合うことが出来る。ええと、これはあくまでわたしの考えなので、否定的な人もいるかもしれない。そんな考えをわたしは覆したいわけではなくって、これは一個人という小さな主語が頭にくっつている前提で読んでほしい。今日はどうやって生きてきた?昨日はどうだった?そして今この瞬間はどう生きている?何を考えて何をしたくって、何をしたくなくって……。それらには意味があるわけではない。ただ意味を持たない空白に問いかけることで、そこには理由が生じることがある。生じた理由は自分を動かしていって、その先でまた出会った空白に問いかける。これはどうしても孤独でないと進められないことで、そこにどんなに大切な人がいても、その人の形状とか大きさには関係しないし、自らその人を排除してやろうという働きともまた違う。ただ、自分を対話をしていても、わたしはわたしがわからない。それに、わかりたくもない。何故ならばわかってしまった瞬間になにをするにしても動く理由がなくなってしまうことが恐ろしいの。人間には限界があるので、わたしはそれを誇らしく思う。だから限界を知る術が生まれてしまえばありがとうもごめんねも大好きも、ただの日記に書かれた伝わらない戯言になる。伝わらなければ意味がないとは言わないよ、そうならばこれまで話してきた日記も独り言もどれもが存在するに値しない言葉になってしまう。ただここでわたしが言いたいことは自己の中で反芻したい言葉と、他者へ伝えたい言葉の間に、薄く線を引いた上でそれぞれの言葉の持つ力についてお話をしているつもりだよ。どうにもうまく言葉になおらない。この話を全て伝えるには、その線を跨いだ二つの言葉を交互に、また同時に扱う必要があるからで、一方は孤独でないと生まれない言葉である以上同時間軸にその言葉同士が存在できずに、その線を取っ払って伝えることができないからだ。だったら何でこんな文章を残そうとしたんだろうなと思ったんだけど、何でだろうね。ここまで読んでくれている君に向けて、なるべくのこと今のわたしの考えていることを伝えたかったんだと思う。どこまでもエゴで満ちた文章です。どうか笑いながら見てくれていたら嬉しい。


ただひたすらに今のやるべきことばかりこなす日々が定着してしまうと、何がしたいのか、何がしたくないのかという区別が曖昧になる。はじめたころは好きだったこと、嫌いなまま始めたこと、どうも思っていないまま今も続いていること。善悪も何もないんだけれど、それら全てをこなすにはあまりにも生きられる時間が短いと感じる。ひとりぼっちの夜に、わたしの今やりたいことややりたくないことを、後から見返しても読めないような蚯蚓みたいな文字で書き殴ってみると、そこには明確にやりたくないことが少ないと気がつく。数字としてみれば少ないわけではない。ただやりたいことを頭に思い浮かべて生きてきた時間が長くってマルチタスクに生きられない自分を認知しただけである。これまで自分の経験にないものに対して、やりたくないなと考えることよりも、おそらくやってみたいなと考えることの方が頭の中で深く残るのだと思う。一度やりたくないと考えてしまった暁には、そいつに対して深く思考することを放棄することがある。やってみたいと考えるとそいつに対しては、前者よりもいろんな可能性を考えることが多い妄想の中の自分を操作して、ふわふわした明晰夢みたいにやりたいことをやった未来を想像する。だから、やりたくないことを考えると、今の自分の周りに起こっている実際の事柄が浮かぶのみであるので、少ないなと感じるのかね。だとするならば知らないことの方が多いこの世界の中で、やりたくないことは99.9%以上を占めているんだろう。じゃあどうして今の自分が自らやっていることに疑いを持ってしまうのだろう?


こうやって悶々と考えていくなかで生まれた楽曲がたくさんある。そいつらにはどれも重たくってどろどろとした、人に聞かせるにはどうしても納得のいかないものばかりが残ってしまった。だから一度ビリビリに破いて、朗らかに明瞭に、そして孤独ではない夜にも目を向けるように音楽を作ってみたいと思った。できた楽曲を下に貼っておくので、もし興味があったらきいてみてほしい。いつも夜曜日という曲。

こんな乱雑なものを読んでくれてありがとう。孤独もひとりぼっちも悪いもんじゃないよ。必ずしもいいものとも言えないけれど。でも多分夜はちゃんと寝たほうがいい。眠れないのならばせめて静かな孤独が君のそばにあってほしい。

もし眠れそうだったら、おやすみ。


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