2024.04.20
からっと晴れた空。いつぞやの太陽が東にある頃の雨霰とは打って変わって瞼も開けられぬ様な春の陽気に身を包まれながら、隣の大きな家の軒下でぶりぶりと機械を鳴らして草刈りをする男性を見ている。鳥も虫も健気に飛び回ってわたしのいるベランダのすぐ近くで羽音を奏でてゆく。近くのアパートの褐色の屋根、乾いたコンクリートの溌剌とした灰、雲の境もないほどに輝かしい空。薄ピンクに花がついた売店横の桜の木。こんなにも春の訪れを感じられる日はいつぶりだろうか。何かこれから美しいことがあるよと言わんばかりの生暖かい寝息みたいな春風を感じながら、頭の中で堆くなりむせ返る予感からふと目を逸らした。
不思議なくらいの青を肌身で感じると、何故だか心のどこかに詰まる侘しさを覚える。どうしようもない孤独感、果てしなく続いてゆく何でもない日。青いランドセルを背負って無邪気に駆け回っていた頃からこういうことが小さな頭の片隅に巣食っていたことを思い出す。帰り道は嬉しい日もあればやるせねえ日もあって、それは今日という日に心が弾む瞬間がどれほどあろうとも決して関係のない謂わば杓子定規なもののように思える。きっと気分屋さんだったのだろう、とそういってやりたいものの今のわたしも何一つ変わらないまま地続きについこの間の誕生日まで過ごしてきてしまった。大人と言われる数字の分の年月を息してきたけれど今となっても帰りたい日もあれば帰りたくもない、そのままふらふらと浮浪してしまいたくなる日もあって、ひとつひとつ紐解いていくと兎にも角にも子供の頃の記憶に追従していく。チャイムが鳴って朝をはじめる日々。無造作に切られた杉の木目の天板が規則的に並ぶ部屋で、明確な目的も知らされずに勉学に勤しみ続ける。個性的であれと誰が言おうか、こうでなければならないと規範的に生きなければならない世界ではどうも難しかった。自分だけ別の大きな華麗な花を咲かせてはいけないような気がしてしまって、息が詰まる夜を何度も過ごした覚えがある。無論そういう花を咲かすことが出来ると威張るわけではない。それでも人の熱気と狂気と愛憎が入り混じる箱の中での出来事は悍ましいまでに楽しい瞬間が幾度もあった。後ろの席について熱心に励むろくに話したこともない男の子が背中にシャーペンを刺してきたり、これまたろくに話したこともない別の男の子が「みててよ」といって褐色にも似た白のマットの上で高速の前転を披露したり、銘々消しゴムだったり練り消しだったりを持ち寄ってつやつやの机の上で落としあったりした。きっとそういう楽しいが募り募ってなんとか無邪気な人間とあれていた。大抵そういう時は決まって、黒いしみや誰かの落書きが混ざり合って混濁した天井の上に今日に似た晴れ空が広がっていて、その陽気が燦々と天井を通過して心の奥底までを照らすくらいの眩い何かとなり降り注いでいたように思える。だくだくと雨の降る音を聞きながら呆然と本を読んだり、絵を描いたりする瞬間がたまらなく好きだったりするけれどそれとは優劣をつけるべきではないだろう。XYの軸がある中に平面では表現もつかないZ軸が現れるみたいにまるでベクトルの違う瞬間なのだ。大切ということはどういうことだろうとぼんやりと考えたことがあるけれど、何が一番で、何よりも何が良くって、何がだめだというある種丁半を決めるみたいに定めるものではないように思った。結局何が大切なのだろうとわからなかったけれど、今となっては守りたいもの、という言葉が酷く腑に落ちる。
そうやって悶々と生きてきては学校を懐かしむような瞬間が訪れた。あの時シャーペンを刺してきた男の子とは、天と地が入れ替わるようなことでもない限り話すことが出来ない。彼とよく自転車で帰ったアスファルト道を散歩していると意味もなく喉の側面を伝って感情が口から溢れそうになることがある。目の前にある看板も見えなくなって頬が濡れてゆく感覚を知っている。今頃何してんだろうなとか何か考えてんのかなとか当たり障りのないことを考えては、何年も雨と虫だけが寄り付く樫のベンチに座ってメモ帳に適当に文章を書き殴る。生まれてきた赤ちゃんを天使みたいだと誰かが言った。それはそれは綺麗なビー玉見たいな瞳で世界に降りてきた天使のようだった。人は死んだら頭上に大きな光の輪が付き纏って、願っても願っても叶いやしなかった雄大な翼が背中から芽ぐむ。きっと彼はずっと天使だったんだとふやふやになってしまったメモ帳を見ながら思う。自分と、その自分と、世界を見つめていくほどに噛み砕けない齟齬を背負い込んでゆく。沈み込んだ先には今の時間が小さな川のせせらぎみたいに流れていて、ゆらりと身を任せていった。
様々に縛られずに広くやりたいことをやっていきたい。それでも相応しいという言葉があるように先走ってどうどうと一人で突き進んでしまうのは恐らく無駄が多い。それでいいのだという人間もいるように、それではいけないという人間もいて、そういうひとりひとりにまで届かなければゆうに自己満足の我楽多となりうる。春の陽気が嘘みたいに自分の心の中の影をより一層暗く輝かせている心地を覚える。その影が心は愚か頭の中、心臓、手足まで及んでは取り返しのつかなくなる瞬間を知っているのでどうか丁度いい距離感で自分と接しなければいけない。いつか人生は生きるに値するという言葉を聞いてからは、それを心の底から信じ込める日が来たらいいと脳の小さな一部屋にメモしておいた。そのメモ書きを幾度となく読み返しては、待ちくたびれた気持ちになって扉を強く閉める。安寧にいられるには何が必要か。そんなことを考えているからだろうがと何でもなかったかのように一本の矢の様な視線で燕を追いかける。彼はどこまで飛んでいけるんだろうか。翼が欲しいと願ったことは一度や二度のことではない。それは大きな大きなどこまでもいける白く苟且とは程遠い翼。
そうこういって物思いにふけってはぼーっと目を伏せていた。肌が今までの温度を保っていないことに驚いて震える目を開ける。下弦の月が左側に落ちていく。そんなに時間が経ったのかと驚く暇もなく、どうやらしなければならないことばかり思い出して、真っ黒の闇を眺めながら忘れようとした。自分のドッペルゲンガーが現れて、目覚めた時には全部片付いていてほしいなと至極利己的なことを考えてはぺちゃんこのサンダルを放ってベランダを後にする。
最近までは絵本をひたすらに作っていた。それはこの間出した帰りの会という曲のMVの絵本であって、どうやって構築しようかとやんややんや時間を溶かした。クロノスタシスという言葉があるけれど真逆と言おうか、その瞬間時計を見ると何時間も経過してしまうような感覚に陥った。わたしは自分がこうしたいというものを形にしないことには納得できるものが作れないというくだらない矜持があって、怒りだとか苦悩だとかが堆くなった部屋の中に何枚も紙ペラを捨てていくと広い作業部屋を感じさせないほどにたった1畳間しかないのではないかと思えていた。大変だったね。あれは。絵を描くのが好きで良かったと心底思った、というにも好きでなければこういう形なんぞ選択肢の一つにも現れないだろうけど。映像では映らなかった絵もいくつかあるので、いつか何らかの形で見せられたらと思う。
明日が来るかも誰も知らない。今日がいつかの明日であって、いつかの昨日であることをわたしはいつも忘れゆく。猥雑にただ漠然とくだらないことを思いながら生活を営んでしまうすぐ横には、願っても訪れない日がきっと沢山ある。ひとりでは抱えきれず、溢れたかどうかも判別がつかないそれがある。だからこそ雨が窓を叩く音が聞こえてもどこまでも続く青が広がっても、傘もささずに何でもない話がしたいと思う。そういうふうに頭の中で反芻して紛れもない今日を過ごしていきたい。あなたもわたしもそうであるといい。長々とありがとうね。
先日MV出しました。よろしくね。
小山慧 - 帰りの会 , Kei Koyama - Last Meeting / Kaerinokai