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隣と音楽

  • dangomuuuu
  • 2021年9月30日
  • 読了時間: 3分

2021.09.30


久しぶりのブログを書こうと思う。段々と涼しくなってきて、街を歩く人々も袖が長くなってきた。私は年中長袖を好んで着ている人間であるから、服装に季節感というものはまるでない。こうも涼しくなってくるとふと夜中にふらっと出歩きたくなる。何をしにいくわけでも無く、一握りの小銭とイヤホンに繋いだスマホを持って夜の静寂の中を歩く、いつも聴く音楽がいつもより自分の傍で鳴ってくれている感覚に陥る。この歌にはきっとこういうメッセージが込められている、それは作った人の解釈にそぐうものであるかは分からないけれどそれを鼓膜を通して真摯に伝えようとしてくれる、あの瞬間が心を揺さぶって堪らなく好きだ。心が洗われる様な音楽や誰かを救い出そうとしてくれる音楽、色々な音がこの世界に鳴ってるが、夜に出向いてひたすらに歩く瞬間に流れる音楽というものは自分自身に寄り添ってくれているような気がしてしまう。自分を肯定してくれるわけでも無く、はたまた否定するわけでも無く、只管に隣で鳴ってくれる。音楽というものは素晴らしく美しいものです。

こんな私なんぞの音楽が、何百何千回と再生されていること自体、どれほど音楽というものが素晴らしいかの可視化された照明であると思う。音楽を本気でやっていこうだなんて馬鹿げてるよって世間の目は訴えてくるのかもしれないけれど、そういう声に対してはうっせえわと一蹴した気持ちでいる。音楽のせいで生きることが厳しくなってしまえばそのまま死ぬし、何処かで私の曲を聴いてくれた人と私のパーソナルな部分が合致して大勢の耳に届く状況へと変わっていったとしたら尚また音楽を作り続けるだけだ。何処かで働きながら音楽を作る人、アルバイトで賄いながら音楽を作る人、脛をがしがしと齧りながら音楽を作る人、色んな形があって、例えどんな状況であったとしても音楽ってものは色褪せるものでは決してないと思う。自分のやりたくないことをして生きていかなければならない、そんな状況に当たることの方がきっと人生の中では多くって、自分が何の為に生きているのかすらわからなくなって、自分自身の輪郭すらも曖昧で不確かになってしまう事もきっとある。そんな瞬間に「生きていればいつか楽しいことがあるよ」みたいな綺麗事は嫌いだ、そりゃそれを否定するわけではないけれども楽しいことがあってもそれを無に帰すぐらいのしんどいことがあることを暗喩しているように感じてしまう。だから「音楽があるよ」と言いたい。誰に向けて言っているわけではないけれど、こんなぐしゃぐしゃの文を読んでくれているあなたに伝わってくれたらどうか嬉しい。無論きっと自分自身にも言っているのかもしれない。色んな事が嫌いになって、好きな事が少なくなって、自分で自分を否定し続ける時間の横にはあなたをあなたたらしめる音楽がある。それは世の中に鳴っている音楽かもしれないし、あなたの中だけに密かに鳴っている音楽かもしれない。どうであれきっと素敵なものだよ。それがきっと全部を嫌って嫌われてしまうと感じた時の光になるんじゃないかと思う。

何を書こうか決めずにだらだらと書き殴ってしまった。凄い音楽を聴いたら嫉妬して、それと同じくらい自分の音楽が情けなくなる。それでも他の誰かの耳にはきっと美しく聴こえて、誰かの生き方に寄り添って鳴る。素敵ですね、音楽。誰か、誰かひとりでもいいから私の音楽で救われるのであれば、それじゃあ音楽を作ります。色んなものをお試しで、自分1人きりの音楽だけで無くてね。

今日の夜7時に新曲をあげるので、良ければ聴いてみてほしいです。またブログ書きますね。👋

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