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虚無主義

2023.04.29


電車の揺れに作用して吊革も乗客も揺れる。ブレーキをかけると感性によって進行方向へ投げ出される。そういう風に色んな地盤を踏んで揺られて、時に放り投げられて生きている様な気がする。ここ最近は生について深く深く考えることが多いけれど、結局日常の時間と何ら変わらないものに思える。当たり前の様にそこにあって、ただそこには意定義も意味も何もないままに漠然と時間だけが過ぎていく中で猥雑に息を重ねる。電車がダイヤ通りに来ることも、目の前の人が些細な段差に躓くことも、遠くに見える山がやけに霞んでいることも、当たり前の様にただそういうことでしか捉えられていない。無論それこそ意味も無いんだけれど、ふと気になるとえんえんと止まないのです。生きる、ということはどういうことなのだろう。毎日ゆらり揺られて仕事へ向かうことだろうか、自分自身を理解することだろうか、正解もない問いを何度も何度も繰り返しては諦観を繰り返している。それならば死とはなんぞや。心臓が止まって、生き物としての生命活動が終わることを死という。生と違ってそういう固定化された概念が死にはある。死んでしまうともう二度と生きることはできないし、その瞬間に生き物としてのエンディングを迎える。だからこそ翻って生が美しくあるのだと思う。死を意識すればするほどに回り回って生に対して敏感になる。のうのうとただ「死んでいない」自分に目を向ける。そういう風に生の対極にある死に向き合って目を凝らしていくことが生きるということなのかもしれない。対極ではなく延長線上とも言えるけれど、ただ何もせず綽々と息をするということは死んでいないだけなんじゃないか。そう小難しく考えても時間は止まらないし、いつか訪れる死は淡々と表情を変えずに近づいて来る。ならばどうせなら楽しく生きられたら、幸せに生きられたらと願いたい。楽しく生きるとは死ぬことを否定しながら生きることではないし、死にたくない死にたくないと願いながら生を進めることでもないし、寧ろ死ぬこと自体を受け入れてしまえばそれはそれは楽に楽しくいられる様な気がするけれど死ぬことは恐ろしいし形も何も知らない。生に囚われた瞬間から影も見えない何かに怯えながら歩き続けなければならない。楽しく生きることなんて不可能なんじゃないかとか幸せを願うことは無粋なのではないかとかそんなことばかりいっていると段々自分がニヒリストの様に思えて来る。全てのことに本質的価値を持てず、冷徹に空っぽにただただ時間を潰しているだけの様に、それは決して悪しきものでもないと思うけれど、何処かでそういう死すらも我楽多に捉えてしまう様な価値観には染まりたくないと思う自分もいた。何をするにも不安を抱えて心を痛めて喉を締めて、苦しみながら生きてきた気でいるけど、もしかしたらそれは側から見たら幸せな方だったらどうだ。結局楽しいことも幸せなことも、それの対極に位置する最悪なものがあるからこそ存在していると言える、幸せな生活がひとつあったとしてそれ以外の全ての人間がこの世から消え去ってしまえばそのひとつの生活は幸せなのだろうか。誰かが泣いているから誰かが笑えるのでしょう。アダム以外に誰もいないからそれがイヴにとっての正義でしかないのでしょう。残酷な様に聞こえるけれどそれが本質的なものだと思うし、そういうことすらも価値もないと吐き捨てる様なことがニヒリズムならば僕はそうはありたくない。ニーチェのニヒリズムもそうなのだろうか、そこに意義はあるのだろうけれどそれじゃニヒリズムとはなんだ。

小さな頃から自分の目が嫌いでずっとうざったく生きてきた。見てくれが悪いことをはじめとしてそもそもの視力が悪いだとか病気があったりだとか、健全な目を持つ人間を羨みながらみてきた気がする。嫌いな理由のひとつに「不思議の国のアリス症候群」というものを患っているということがある。ヘンテコな名前だけど本当にあるよ。その症候群はおとぎの世界の様に、自分自身が異常に大きく感じたり小さく感じたり、周りのものが大きく見えたり遥か遠くに見えたりと様々な普通ではない見え方をするものであって、僕はずっとそう言う見え方が普通なのだろうと思いながら小さな頃は過ごしていた。人を目を合わせればその人の顔は遥か遠くへ、なぜ自分が視認出来ているのかもわからないくらいの距離まで遠ざかっている様に見えたり。何かのタイミングでそれは普通の見え方ではないことを知った時には自分から見えている世界は他人が見たらどう思うのだろうと時々思う様になった。きっと恐ろしいものだと思う。その症候群はどうも子供の頃に発症することが多いらしく大人になるにつれてどんどんとそう見える頻度が少なくなっていくそう。例に漏れず確かに僕も段々と年齢が上がるごとにそういう見え方をすることは少なくなった気がする。そう思うとなんだか少し寂しい様な感覚があるのは何故だろう。この見え方が自分だけのものであれば夢の中の世界と現実の丁度合間を生きられていたような気分でいたからだと思う。不思議の国のアリスは何だかんだ最終的には目が覚めて普通の世界へ戻ってくるんだけれど、それはアリスが大人になったという意味合いの側面があると思っていて、こういう世界が見えなくなればなるほどもう子供じゃないという、ある種達観して物事に付随していく様になるのだろうかと。どんなにほざいても時間なんて止まらないし、どう足掻いても進んでいってしまうことであるから、そうやってその時々に見える世界を自分の中でその都度残していたい。今見えている世界と前に見えていた世界と、この先に待っている未来とそういう不確かなくだらない様なものを何処かで受け入れながら淡々と歩いていきたい。そうじゃなければ気づかなければいけないことすらも目に入らないでしょう。しょうもないものなんてと吐き捨てて仕舞えばその上に重なってゆく美しいものすらしょうもないと思えてしまうでしょう。そんなこんなでやってます。5月4日に新曲がでます。凄く久しぶりにボカロを作りました。好き放題に作ったよ、よろちゃん。

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